2008年8月18日月曜日

見岳 章 -Akira Mitake-

~web人名事典~
見岳 章(みたけあきら)Akira Mitake

本名:大塚貴彦 1964年03月31日生まれ、血液型Rh+O。1986年、日本大学芸術学部卒業、1992年、米バークリー音楽院大学作曲科(プロコース)修士課程修了。作曲家、演奏家、音楽家。後に東京芸術大学博士号授与。

生誕日について-音楽誌にプロフィールが紹介された際、一度1956年11月11日と掲載されたが、同誌次号誌面上で1964年03月31日と訂正される。本名も公開された。また、日本作曲家協会賞受賞のおり、スポーツ新聞に吉田 正、日本作曲家協会会長(1993年当時)と裏一面に写真とプロフィールが載っており、この点については当web人名事典はWikipediaよりも完全に自信をもっている。

見岳の由来は熊本県上益城郡山郡町の見岳山からという説と福島県石川郡古殿町松川の鎌倉見岳山(鎌倉岳)からという二説。いずれにせよ地所の名前が由来という。章は一頁、一篇、第一章「見岳の章(みたけのしょう) 」という意味でつけられたといわれている。見岳として書く曲は自分の一部分ということ。それ以上でもそれ以下でもない。
不思議なことに見岳という苗字は存在しない。 実在しない苗字である。

4歳からクラシック・ピアノを習い始める。いわゆるピアノのお稽古であったが、譜面通り演奏することに飽きてしまい、ピアノの先生から作曲を勧められ、7歳頃から作曲を始める。 中学生時代に既にベイシティローラーズの歌を作曲したとされているが定かではない。

1982年、「すみれSeptember Love」でブレイクした一風堂のキーボード奏者。高校時代からバンドのボーヤ、いわゆる雑用係、見習を経てデビューした業界最後のアーティスト。
TBS系列の音楽番組「ザ・ベストテン」の出演を最後に単身英ロンドンへ。このテレビ出演が一風堂、キーボード見岳 章として最後の出演となった。その後、一風堂は解散。

高校時代から英国、米国の音楽業界にフォーカスし、仲間とスタジオ録音したデモテープを送り続けた。米国のポピュラーソング系レコード会社に一曲が認められ、採用されるも、曲を印税ではなく200万円で売り、デモテープを作ったメンバーと山分けしてしまい米国レコード会社との縁はぷっつり途絶えてしまう。
しかし英国に送ったロック音楽が当時のポリスのプロデューサーに評価され、「一度ロンドンに来ないか?」とアプローチを受ける。 ポリスのアルバム1979年「白いレガッタ」(白いレゲエ)の中に見岳章の英国デビュー(結果的に世界デビューとなった)曲が収録されている。つまりMitakeは一風堂としてブレイクするよりも前に英国デビューしていたわけである。無論作曲家としてではあるが。デモテープを送ってのオーディションによるもので、改めてロンドンに渡る際には新譜100曲以上を持参したという。
見岳の頭の中にはおそらく英国の伝統ある音楽界を知ってから、米国にアプローチすることを考えていたと思う。デビューは英国、ビートルズを生んだ国で音楽に触れる。米国のレコード会社との契約はその後で。構想どおりマドンナの「ライクア・ヴァージン」で全米を驚愕させることになる。
Mitakeは日本で納税していない。1992年に国税局に疑われ、自ら身の潔白を証明し、逆に国税局員が国際警察に逮捕される事件があった。誣告である。それ以来、彼は日本では印税収入について納税しない主義になり、海外、米、英、仏などで納税している。その国の国民が国に納税せず、他国に納税することは税法に抵触する可能性があるが、彼は納税している国の国籍をもっている。なぜそんなことができるのだろう?彼は貴族称号を授与されているという。結局、人間不信だろう、その事件を機にマスメディアに出演することをしなくなった。 日本をこよなく愛していた彼は日本に不信感をもつ外国貴族に変わってしまった。マイクロソフト社のビル・ゲイツ氏との対談では実業家として対談、日本への不信感をあらわにした。


三人組ロカビリーバンドをストレイ・キャッツ(野良猫)と名づけ、デビューさせ、古い曲のコピーバンドという評価を一変させた。自身もキーボード でレコーディングに参加するなど精力的であったが音楽の方向性がMitakeでないなどという評価も受けている。(当時のタブロイド紙) 全英、世界デビューしたAkira Mitakeの曲はポリスのアルバムの中に、まるで挿絵のように挿入されたメロウなインストロメンタル曲で、その曲が知られていたためにそういった批評となったと考えられる。
例の一件で日本ぎらいにもなり、1992年、念願の豪州デビューを果たした。「米バークリー音楽院の卒業アルバムだ」と洒落れた「ゴールド・コースト」(ホワイト・コアラ・レコード社)というアルバムは900万枚のセールスを記録。豪州音楽史に残る記録となっている。カラッとしたロックアルバム。豪州・ニュージーランドでは、国賓待遇者である。
彼は、米国の高額納税者(White-card所有者)であり、イギリス貴族の資産番付にも載っている。脱税はしてないよ。確かに日本よりも米国納税は遙かにメリットがあり、特別待遇を受けることができる。脱税者という疑いをかけられた彼が日本で納税しているのは個人事務所の法人税ぐらいだろう。さりとて彼を責めるわけにはいかないのである。
つづく

演奏する楽器はキーボード、ピアノ、ギター、ベース、トランペット、サクソフォンetc.
アン・ルイスや沢田研二、美空ひばりなどのバックギタリストを務めた経歴もある。 美空ひばりさんのコンサートでのガットギター一本の演奏は圧巻であった。
米バークリー音楽院の先輩に渡辺貞夫、MALTA(丸田良昭)ら、後輩にジャズ・ピアニスト 山中千尋、上原ひろみ。 演奏家が多い中、作曲科卒は珍しい。 今でも高校時代同様、朝は「モーニング・アイランド」(1979年©渡辺貞夫)で起床。

「川の流れのように」は作曲され、真っ先にそのメロディーを美空ひばりさんがTV局内の楽屋で聴いたという。お会いできた時間は5分程度だったというが、その時渡したデモテープがきっかけで、当時作曲家100人待ちと言われた美空ひばり歌唱曲の作曲家に見岳章の名前があがった。デモテープを渡してからすでに4年の月日が経っていた。美空さんが歌いたいといった曲、「川の流れのように」は日本では無名に近い見岳章の曲に、ラジオの構成作家をしていた秋元康が詞を書いた美空ひばり歌唱曲としては異色であり、イレギュラーな曲あった。そのため1989年にリリースされたが発売当時の評価は低く、再評価され売上100万枚を超えたのは美空ひばりさんの死後、90年代後半のことである。爆発的なヒット曲ではなく長い期間、だんだんと徐々に売れていった曲 であり、今現在も売れ続けている。

[見岳 章はこんな人と仲良し]
ロッド・スチアート、スティング、マドンナ、シンディー・ローパー、プリンス、レニー・クラビッツ、ジャミロクァイ、ジャネット・ジャクソン、マイケル・ジャクソン、マライヤ・キャリー、ホイットニー・ヒューストン、スティービー・ワンダー、TOTO、ジェフベックetc.

亡くなった作曲家 吉田 正氏の勧めで(社)日本作曲家協会会員となっている。
生前に吉田 正作曲全集CDアルバムのプロデュースをしている。

とんねるず1985年「雨の西麻布」 (作詞 秋元 康)
美空ひばり1989年「川の流れのように」(作詞 秋元 康)はあまりにも有名。1986年 「愛燦燦」(作詞・作曲 小椋佳)のサウンドプロデューサー。











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